医療は不完全なもの

  下肢静脈瘤の治療を希望してクリニックを訪れる患者さんたちの多くが心配されることのひとつが,放置すると血栓ができて心臓や脳に跳んで心筋梗塞や脳梗塞になるのではないか,というもので,どうやらあるテレビの健康番組が情報の出所のようです.

 これに対する私のいつもの答えは,その可能性はゼロではないとは言え極めて低いということです.

 まず,下肢静脈瘤に血栓ができてもそれが跳ぶのは数千人に1人で,しかも正確な行き先は肺です.従って特殊な状態を除いて解剖学的に繋がっていない心臓や脳に跳びようがなく,このことは医学生でもわかる医学の常識です.

 なのに,その極めて稀なことをさも頻繁に起こるかのように表現して人々の恐怖を煽り立てるというのは,視聴率のためとは言え,いかがなものでしょうか?

 話変わって,最近は人々の権利意識の向上によりわが国でも医療訴訟が激増しており,それが医療の萎縮につながる懸念さえ起こしているというのは知っての通りです.

 少し古い事例になりますが,福島県のある病院で,数少ないベテラン産婦人科医として地域医療のために奮闘していた医師が,極めて稀な難しいケースのお産で,残念ながら母体を助けられなかったのですが,あろうことか警察が介入して逮捕,起訴までされました.
 このことはその後大きな社会問題にまで発展し,全国的に署名活動などが起こって最終的には無罪となりましたが,大きな禍根を残すこととなったのは記憶に新しいところです.

 最近ではさすがにいきなり警察が介入するというような馬鹿げたことは少なくなりましたが,このような事件やそれに便乗するマスコミの過剰とも言える反応が招く代償は大きく,昨今,産婦人科や小児科,外科など訴訟が多い科目を専攻する医師が激減するなど医療崩壊の一因ともなっています.

 そもそも医療に完全はありません.病気の進行や合併症を完全に予想することも出来なければ,副作用のない薬や注射などありませんし,成功率100%の手術もありません.

 もちろん命に関わることもあるのですから,可能な限り正確な診断を下し,完璧な治療を目指すのは当然ですし,明らかな技量不足や起こしてはならない単純なミスで事故を起こしてしまったような場合は批判されてしかるべきです.
 
しかし,少なくともその時点では完全と思われる診断や治療を行ったとしても,予期し得ない経過になることや合併症が発生することは必ずあり得るわけです.
 例えば私が関わっていた心臓の手術の場合でも,残念ながらどんな名医(という言い方も語弊がありますが)が行っても1パーセント程度の手術死亡はありますが,これは医療ミスでもなんでもありません.
そもそも私が研修医のころは,心臓の手術死亡は20パーセント以上もあったわけですから,ここ30年余の医療の進歩は驚異的とも言えるでしょう.

 つまり,薬の投与量を間違えたり手術で誤って血管を傷つけたりして医療事故を起こしてしまったような場合と,予期できない不可抗力で副作用や合併症が起こる場合とを,全く同列には扱うことは出来ないのです.
 なのに何でもかんでもミスとか失敗というのであれば,血管が細くて注射の針が1回で入らなかった場合でさえもミスと言われてしまうのではないでしょうか?

 また,医療裁判では,ある検査や治療さえ行っていれば事故が起こらなかった可能性が高いなどとして有責になることも多々あります.
 確かにその時点での医療レベルの常識に照らし合わせて明らかに必要な検査や治療を怠っていたならばやむを得ないかもしれません.
 でも,例えば幼児が外で走り回って転んで,砂場で頭をちょこんとぶつけておでこに擦り傷を負った.その時は大声で泣いたけれどもその後はすっかり元気!
 このような場合,極めてのその確率は低いけれどもゼロとは言えない脳出血の可能性のために,小さな身体にはあまりにも被曝線量の多い脳のCTを毎回撮るべきでしょうか?

 それに,最初に述べた血栓の件でも,もし極めて稀な可能性を払拭するということならば,全員に手術を行わなければなりませんし,手術を勧めなかったら訴訟の対象にさえなりかねないということになってしまいます.

 結局のところ,病気の合併症にしろ医療事故にしろ,言ってみれば確率論を忘れてしまった議論ばかりが先行しているわけです.

 もちろん,我々医療従事者も可能な限り丁寧に詳細に説明するべく努めなければならないのは当然ですし,その結果,医療現場では説明書や承諾書などの書類がうんざりするほど増えてしまっているのもやむを得ないと思います.
 でも,山積みの説明書や承諾書が重要ではないとは言わないものの,それよりも何よりも重要なのは,医療側と患者側との間にいかに良好な信頼関係が築けるかということにつきると思います.

 そういう意味で私達医療従事者は,いつも謙虚な気持ちで自己研鑽を忘れず,患者さんたちの思いに真摯に向き合い,信頼を得る努力をしなければならないのも言うまでもありません.


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