極めて遺憾です…

 9月も終盤,ようやく残暑も終わり,少しずつ過ごしやすくなりました.
 
 クリニックの経営はまあまあ順調ですが,何と言っても当院自慢の(!)スタッフの力に負うところが多く,最近は彼女たちへのねぎらいとお互いの親睦の意味も兼ねて,2か月に1回くらい食事会をするようにしています.
 先日は向かいのANAクラウンプラザホテルの階下にある,伊勢海老専門の料理店「中納言」で,ちょっと贅沢なランチを堪能し,皆とても喜んでくれました.
 
 さて,ある患者さんと医師との会話です.
  患者 「先生,この病気はどうやって治療していくのでしょうか?」
  医師 「適切な治療を,全身全霊を尽くして行います」
 この患者さん,結局手術となりましたが,手術が予想外に長引き,心配する家族に対して看護師が説明します.
  家族 「手術は順調に進んでいるのでしょうか?」
  看護師「粛々と進めています」
 でも残念ながら予想外の合併症が起きて,残念な結果となってしまいました.
  家族 「手術ミスではないのですか?」
  医師 「想定外でした」
 きちんとした説明をしてくれない医師に対して,家族が訴訟を考えています.
  医師 「極めて遺憾です.お互い戦略的互恵関係を作れるように解決したいと思います」
 しかしついに訴訟になってしまいまい,病院にはマスコミの記者が殺到します.
  記者 「今回の件,病院側としてはどのように対処されますか?」
  病院 「訴状をみていないのでコメントできませんが,冷静かつ毅然として対処いたします」

 もちろんフィクションですが,どこかで聞いたことばがてんこ盛りだとおもいませんか?

 今,尖閣諸島や竹島の問題を巡って日中・日韓関係が大変なことになっています.
 私は,ここで政治的なことについて私見を述べることは差し控えますし,日本が尖閣諸島を独自の領土として国有化したことをどうこう言うつもりはありません.
 このような事態になってしまったのは本当に残念ですが,あらゆる観点から検討した結果,やはり日本の領土であることに間違いはないというのであれば,領有権を堂々と主張したらよいと思います.

 でも,私が気になるのは,政治家たちのものの言い方です.

 「反日デモが頻発していることは,極めて遺憾である」という,「遺憾」ということば…
 「国有化に対する中国の反応は想定外だった」という,「想定外」ということば…   
  これは,福島原発事故の時にも耳にタコができるほど聞かされました.
  
 日中関係をどうするのかと訊かれたら,バカの一つのように「戦略的互恵関係」という,一般庶民には今一つ理解不能な答え…
 「粛々と」とか「適切な」とか「冷静に」とか「毅然とした」というような,お決まりの副詞や形容詞の数々…

 もちろん,非常に微妙な問題がゆえに,間違っても一触即発のような事態になることは避けねばならず,「冷静沈着な判断,話し合い」が必要なのはいうまでもありませんし,一語一語が慎重にならざるを得ないのは理解できます.

 でも,こんな,木で鼻をくくったような態度で発せられる,無味乾燥かつ曖昧なお決まりのことばの羅列を聞かされていると,本当に問題解決をする気があるのだろうか?と訝ってしまうのは,私だけでしょうか?
 以前のブログでも述べましたが,なぜ彼らはいつも,まるで歯にものの挟まったような言い方しかできないのか? 心に響かないというか,言霊がこもっていないというか,これでまともなコミュニケーションが取れるのか?と思ってしまいます.

 もっともこういったお決まりの言葉を聞かされるのは,実はいつものことです.
 
 国や企業などが訴えられたとき,取材をしたマスコミに対して,必ずと言っていいほど使うことばが,「訴状を見ていないのでコメントできません」ということば. 
 でも,「そんな大変な事態になっているのに,訴状をみていないわけないやろ?」と突っ込みたくなります.
  
 それから,億単位の献金や贈賄を疑われながら,「記憶にございません」というようなことば.
 これでは,「自分は重度の認知症でございます」と言っているようなものです.

 もしも医療現場で冒頭のような対応がなされたらどうでしょうか?
 結末は,いわずもがなです. 

 もちろん私のような政治の素人に,国家の一大事について偉そうなことを言える資格はありませんし,「では,どう言えばいいのか?」と訊かれても困ってしまいます.
 ただ,石原都知事や橋下大阪知事のように,波紋を呼ぶことを覚悟ででもはっきりものをいうことがベストであるとは思わないものの,国家間の問題とて結局は人と人との言葉のやり取り,もう少し何とかならないものかと思ってしまうのです.

 スケールは小さいですが,私も患者さんたちとの会話の中で,いかに彼等と心からの信頼関係を築けるかということを頭において,発する言葉ひとつひとつに魂をこめて話すようにしたく思っています.


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お天道様は見ているよ

 今年も9月,朝夕は少しずつ涼しくなりましたが,まだまだ日中は厳しい残暑が続いています.
先日などはふだんと異なり午前より午後に来る患者さんの方が圧倒的に多くて驚きましたが,日中があまりに暑いから,涼しい夕方まで待ってから来るんとちゃいますか?とある患者さんのお言葉,妙に納得させられました.

 さて,昨今,かつて高潔で清廉と謳われていた日本人の魂はどうなったのかと感じてしまう,何ともやりきれない事件が後を絶ちません.

 昨年10月,大津市の中学校で,2年生の男子生徒がいじめを苦にして自殺したのをきっかけに,学校側が生徒たちにアンケートまでしていじめの事実をつかんでいながら,自殺といじめの因果関係は証明できない,などとして隠ぺいしようとしていた事件.いじめた側の生徒たちも,いじめを認めるどころか,反省の色さえないとのこと.
 事件発覚後の教育委員会や校長の対応はテレビで報道されましたが,あの歯切れの悪い,あまりにも不誠実かつ曖昧な対応ぶりには,国民誰しもが激しい憤怒と不信感を感じたようです.

 いったい誰のための教育委員会,誰のための学校なのか?彼らは教育というもの,そして人間の命というものをどう考えているのか?あれだけ生徒たち誰もがサインを出しているのに,それを闇の中に葬り去ろうとしたというのはどういうことなのか?
 
 そもそもいじめの問題は,人間の倫理の根幹にかかわることだと思います.弱いものを多人数でいじめる…,これはどんな時代,どんな国でも,決して許されることではありません.それは「卑怯」だからです.そこに理由などありません.悪いことは悪いのです.これは「国家の品格」の著者,藤原正彦氏も述べている通りです.

 そんな,ごく当たり前のことが,どうしてわからないのか?未成年だから許されるなどというのであれば,それはあまりにも甘すぎますし,そんな基本的な倫理を教えてこなかった親も学校も責任は重大です.
 しかもさらに悪いことに,自分たちの保身ばかりに走り,事件を隠ぺいさえしようとする学校や教育委員会の腐りきった体質…,これではまともな教育などできるはずがないというのが,国民誰しもの感情でしょう.

 それから,今年4月に京都府亀岡市で起こった,あまりにも悲惨な交通事故.
 無免許で一晩中自動車を運転していた18歳の少年が,居眠り運転の末,朝の登校中の小学生の列に突っ込み.保護者や児童など10人もの人々を死傷させたのです.少年は以前にも無免許運転を繰り返していた上,今回同乗していた数人の友人たちも無免許だったのを知っていたというから驚きです.

 しかしこの事故に関して何よりもやりきれないのは,京都府警や地検が,無免許運転や居眠り運転自体は法的な要件に含まれず、危険運転致死傷罪の構成要因を満たさないとして、自動車運転過失致死傷罪を適応したということです.少年は無免許ではあるもののそれまで何回も運転を経験しており、事故の直前も無事故で長時間運転していたことからは「運転技術はある」と判断したというわけです.

 確かに法律上はそうかもしれません.
 でもいったい誰がそんな馬鹿げた(と敢えていわせていただきます)判断に納得できるでしょうか?無免許運転や居眠り運転が危険運転でないのならば,いったい何が危険運転だというのか?
 無免許運転が違法であることを本人も友人たちも知りながら運転し,多くのかけがえのない命を一瞬にして奪った.それだけで十分,悪意に満ちた行為であり,厳罰に処せられるべきなのではないでしょうか. 

 もしも医師が無免許で長年医療を行って,医療ミスで患者さんを死に至らしめたらどうでしょう?医療技術があってそれまで無事故であれば,過失で済ませるのですか?ということです.

 亡くなった方々やご家族の無念さを考えると,この理不尽さには怒りがおさまりません.

 これらの事件のみならず,未成年だから,法律ではこうこうだから…,と,我々一般庶民の感情とあまりにも乖離してしまっているような事例が多すぎると感じるのは私だけではないでしょう.

 確かに,冷静さを欠く怒りや悲しみの感情は,時としてポピュリズムを生む危険性もありますし,法治国家である以上,きちんと法に乗って処理されてしかるべきです.

 しかし,私はやはり,時代劇の「大岡越前」のように,悪いことをした人間は誰しもが納得できるようにきっちりと裁かれ,被害を受けた人々が少しでも無念を晴らせるような社会であってほしい.

 今はあまり聞かれなくなりましたが,私の小さい頃にはよく「お天道様は見ている」という言葉がよく使われました.善行も悪行も,みんないつでも神様がお見通しなんだよ,という意味の言葉だそうです.
 一見単純なこの言葉には,人間の倫理感を育む,実に重要な意味が込められていると感じます.
 
 こんな時代だからこそ,誰しもがこの言葉の意味をかみしめて,良心に恥じない生き方をすることを幼少時からきちんと教えるべきではないかと思います.