ちょっと頑張れ(~_~;)

今年もはやもうすぐゴールデンウィークだというのに,例年になく肌寒い日が続いています.春らしい季節がスキップされてしまい,今度は昨年のごとくすさまじい猛暑が延々と続くのでしょうか?地球温暖化の影響なのかどうかわかりませんが,最近の日本は四季がはっきりしなくなり,「二季」になりつつあるのではないかとさえ思います.

 さて,最近とみによく聞く決まり文句… それは「頑張れ」という言葉です.
東日本大震災が起こってから,日本のみならず世界中の人々が被災者たちに毎日のように「頑張れ」という応援メッセージを送っています.
 今回の地震の被災者のみならず,たとえば病魔と闘っているような人たちに「頑張れ」というような言葉をかけることについては,もう十分頑張っている人々に却ってプレッシャーをかけてしまうため,かけるべきではない,というような意見もありますが,それでも人を励ますのにこれほど便利な言葉はなく,軽い気持ちでついつい使ってしまいます.
 中国語にも「頑張れ」を意味する「加油(チアヨウ)」という言葉があり,これは北京オリンピックでもおなじみになりました.

 ただ,この言葉は英語や他のヨーロッパの言語にはないようです.アメリカに住んでいたときにも,日本語でなら「頑張ってください」と言いたいような場面が幾度もありましたが,ぴったりと当てはまる訳語がないのでいつも困りました.辞書をひくと「Hang in there」というような言葉もありますが,これは「持ちこたえる」というような意味合いで,ニュアンスが強すぎます.
 結局,人を励ますような場面では,「Do your best」とか「Good luck」などと言っているようでしたが,気軽な意味合いでも「頑張れ」を使い慣れている日本人としては,やはりどうもしっくりしない感じで,日本語にしかないこの言葉がいかに便利か痛感しました.

 同じようなことは,「よろしく」という言葉にも当てはまります.この言葉ほど言外に色々な意味を含んでいる,便利な言葉はないのではないか,と思います.まさに本音と建前を使い分け,阿吽の呼吸を大事にする日本人の精神性が生んだ言葉でしょう.辞書をひくと「Give my best regards to…」などと訳されていますが,やはり日本人が使う「よろしく」ということばの意味とはだいぶ異なると思います.

 すこし話はそれますが,我々医療従事者がよく使うことばの一つが,「ちょっと」という言葉です.
以前,我々が仕事中にいかにこれを多用しているか,すごく気になって仕方がないことがありました.医師も看護師も,とにかく何かにつけてこれを使ってしまうのです.たとえば,待合室で「ちょっとお待ちください」,注射をする時には「ちょっと痛いですよ」,処置をする時には「ちょっと消毒しますからね」,検査する時には「ちょっと検査しましょうね」と,なんでもかんでも「ちょっと」をつけてしまう.
 おそらくこれは,医療行為というのはややもすると痛みや苦痛を伴うものも多いので,患者さんへの気遣いというより,自分たちの行為に対する「言い訳」のような感じでついつい使ってしまうのかもしれません.そう思っていても,やはり今日の診療で「ちょっと血圧測りますからね」なんて言っている自分がいました(笑)
 でもさすがに,手術をするときに「ちょっとオペをしますからね」とはいいませんが,それほど使い慣れてしまっているということでしょう.

 ついつい使ってしまう「頑張れ」という言葉も,使いやすい,そして便利な言葉であるのは確かです.上述の批判にあるように,むしろ「頑張らなくてもいい」などと声をかけるべき状況もあるにはあるでしょうが,それでも落ち込んでいる時,元気がない時,エネルギーを分けてほしい時などは,この言葉で励まされるのが,単純ではあるけれども,やっぱり一番嬉しく,勇気づけられるのではないでしょうか?


  


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今,学ぶべきこと

 4月半ばになりました.今年は例年になく気温の低い日が続きましたが,先日の日曜日はようやく訪れた春の温かい日差しのもと,満開の桜の下で花見に興じることができました.
 
 さて,東日本大震災からすでに1ヶ月以上が経過し,ライフラインや道路や港湾の再建,仮設住宅の建設など復興に向けた動きが急ピッチですが,大規模な捜索にも関わらずいまだ行方不明者が一万人人以上いる上,原発事故は収束の道筋が見えるどころか,先日ついにあの忌まわしきチェルノブイリ原発事故と同じレベル7まで引き上げられてしまいました.
 長期の避難所生活を余儀なくされている人たちの健康や今後の生活再建についても,難題が山積しています.

 さて,先日の読売新聞に,今回の大震災に対する作家の曽野綾子さんのインタビュー記事が掲載されていました.
 
「国家に頼らず自ら行動を」 曽野綾子 氏(作家)

 私たち日本人は、戦後の復興と高度経済成長を経て有頂天になっていた。今回の東日本大震災によって、甘やかされた生活がこれからも続くという夢が打ち砕かれた。

 私は長く海外援助活動にかかわり、アフリカなどへ度々出掛けるので、日本は夢のような国だと思っていた。電気や水道が絶え間なく供給され、交通や通信がいつでも使える。多くの国に比べれば汚職や権力の乱用もないに等しい。しかし、今回、国のあり方の基本が崩れた。
 「欲しい」と思えば何でも手に入る社会は、異常社会だ。私は、電気も水も止まるものだと思っているから、普段から自宅の瓶に水を取り置き、練炭、炭、火鉢も床下に保管している。カセットコンロも常備している。頻繁に停電するアフリカでは、いつも手元のバッグに懐中電灯と水、ビスケットを用意している。
 政治家は「安心して暮らせる社会を作る」と言うが、そんなものはありえない。老年世代までが、政治家のそんな言葉を信じていた。政治家も有権者も、自分の頭で考えることをしなくなっている。

 震災後、政府の不手際や東京電力の失敗はあったかもしれない。しかし、犯人捜しをしても仕方がないことだ。現在のシステムは複雑で、総合的に見ないと日本は復興に向かって歩き出せない。
 そうした時代を生きる私たちは、国家やシステムを疑い、それらにあまり依存しないことだ。日本には優秀な技術者や官僚がいるから、被災したライフラインも間もなく復旧されるだろう。私もシステムにお世話になっているが、最後は自分で自分を助けることができなければ、人間としての義務に欠けると考えている。

 国家がすべて何とかしてくれると考えるのは違う。めいめいが自分で考え、行動する癖を身に付けることだ。それは他人の痛みを部分的に負うことでもある。被災地の支援も国家に頼るのではなく、「痛い」と感じるくらい自らお金を出すことだ。出さない人がいてもいい。だが、そうした人は人権だ、権利だと言わないことだ。
 東北の人たちが礼儀正しく、苦しさのなかでも微笑をたたえていられるのは、雪深い冬を生き、過去に津波や貧しさを体験し、日常で耐えることや譲ることを知っている人たちだからだろう。以前は集団の出稼ぎもあった。苦しみに耐えてきた人たち、耐えることができる人は美しい。

 人間は本来、苦しみに耐えるようできている。ところが、今の子どもたちは欲しいと思うものを何でも与えられて育った。子どもに耐える体験をさせることが大切だ。
 18歳になった若者に1年間、サバイバルと奉仕を体験させるべきだと私は主張してきた。携帯電話から離れ、大部屋で暮らし、他人と自分を助けるのに役立つ力を持てるよう、心身を鍛えることは必要だと思う。

 アウグスティヌスは「すべて存在するものは善いものである」と言う。この世にあるもの、起こることには意味があるということだ。今回の事態から何を学ぶか、一人一人が考えることだ。
 

 この記事は,まさに今の日本人がいちばん痛いところを突かれているといわざるを得ないと感じます.

 私自身も数年前,「海外在住邦人医療相談」という事業に参加して,アフリカ諸国を約3週間にわたり訪れる機会がありました.

 ケニアやタンザニアでは,かなりグレードの高いといわれるホテルに泊まりましたが,電力事情が不安定なので,しょちゅう停電しましたし,壊れて水が出ないトイレや水道もありました.治安や交通事情もとんでもないほど悪い.
 タンザニアではある病院を視察しましたが,ハードもソフトも日本では考えられないくらい貧弱でした.日本の国民皆保険のような制度はもちろんなく,病気になっても病院で満足な治療を受けられる人は限られているとのことでした.また腕のいい医師はどんどん海外に出て行ってしまいろくな医師が残っていないとか,ある病院では,うそのような話ですが,虫垂炎の手術を希望したら,糸と針は自分で買ってくるように言われたとか…,耳を疑うような話ばかりでした.
 
 私はこの旅行で,日本という国があらゆる面でいかに世界に類をみないほど恵まれているか,ということを痛感せざるを得ませんでした.

 歴史は,繁栄の後には必ず没落があるということを示しています.日本は戦後の高度成長期を経て,今や未曾有の繁栄と平和を謳歌しています.今の中東・アフリカ諸国のような国家の存続を揺るがすような出来事もない.そんなぬるま湯の中で,我々はすっかり平和ボケして,礼節や道徳さえ忘れるほどすっかりたるんでしまったのではないでしょうか.頼みの政治家といえば,国民の皆様のためになどと綺麗事をいいながら,実際は民意などそっちのけで,私利私欲にまみれた内輪もめやお互いの足の引っ張り合いばかりをしている.

 少し過激な言い方かもしれませんが,実は今回の地震は,そんなたるみきった我々日本人と閉塞した社会に,神様が天誅を下したのではないかとさえ思えるのです.
 
 もちろん今回の震災で犠牲になられた多くの人々に罪はありませんし,こんな大災害は起こらない方がいいにこしたことはありません. 
 それでも,普段何気なく享受している平和な生活が,実は全く当たり前のことではないと意識することことそが重要なことであり,この大震災を乗り越え,あらゆる意味で強い国家を創れるかどうかが,今後の日本人の行く末を占っている,そしてそれができなければ,犠牲になった数多くの人々が浮かばれないと思うのです.