「終わった」なんて…

 2月も終盤に入り,少しずつ春の陽気を感じさせる日も出てきました.
 
 さて先日からバンクーバーでは冬季オリンピックが開かれ,選手たちが熱い熱戦を繰り広げています.
 日本からも多くの選手が参加しましたが,なかなか世界の壁は厚く,期待するほどメダルの数は伸びません.
前半に行われた女子モーグルでは,日本の第一人者である上村愛子選手が出場し,メダル候補として日本中の期待を一身に背負って試合に臨みましたが,またもやメダルには届きませんでした.今まで4回ものオリンピックに連続出場するたびに着実な進歩を見せ,その順位が偶然にも7位,6位,5位と階段のように上がってきましたが,神様のいたずらなのかどうか,なんと今回もひとつだけ上がって惜しくも4位でした.

 試合後のインタビューでは,今度も周囲の期待に答えられなかった無念さで「なんで一段一段なんだろうと思いました…」と涙ながらに語っていた彼女の姿が印象的で,私も含め思わずもらい泣きしてしてしまいそうになった人も多いようです.

 この結果に対するマスコミの反応は,もちろん彼女の活躍を讃える論評が基調でしたが,ただ私はどのマスコミも判で押したように使うある言葉に違和感を感じました.
 それは,4位に「終わった」という言い方です.これは彼女の場合だけでなく,またオリンピックのみならずどんなスポーツの試合でも,よく見受けられる表現です.推測するに,周囲の期待を一身に背負って臨んだにもかかわらずその期待を裏切ってしまった場合には,このように「終わった」という表現が使われることが多いようです.某国営放送局までがこの言葉を使っているところを見ると,この表現を行うことが決まりごとにでもなっているのでしょうか?
 反対にあまり期待されていなかった選手が意外にも好成績を残した場合などは,むしろ「快挙」などのpositiveな表現が使われているようです.
 これはまあ仕方がないといえばないのでしょうし,それほど目くじらを立てることではないのかもしれませんが,私にはどうしてもこの「終わった」という表現は,何か選手に対して失礼な感じがするのです.

 上村愛子が日本における女子モーグルの第一人者であり,世界と互角に戦える素養を持っているのは誰しもが認めるところです.
 しかし今回のモーグルの結果を見ればわかるように,やはり世界の壁は厚かったということなのでしょう.もちろんメダルを争うほどの選手たちの実力など実際には僅差で,上村愛子にも十分その可能性はあった,しかし当日の調子や天候など,どうしようもない一瞬の「運」とでも言うべきもの,それが残念なことに彼女には微笑まなかったということなのでしょう. 

 メダルを期待するのは同じ日本人として当然で,私も心情的には,4回もオリンピックに出ているのだから(別に彼女が可愛いからということではありませんが(笑)),何が何でも獲らせてあげたかったと思いました.しかしそれはどの国の選手でも同じことだと思います.
 彼女のみならず,国の期待を一身に背負ってオリンピックという大舞台に参加する選手たちの,それこそ血のにじむような努力,忍耐,ストレス…それらは我々のような凡人には察してあまりあるものでしょう.メダリストとなれるかなれないかの差でその後の評価は天と地ほど違ってくる,だからこそメダルを獲れなかった悔しさ,悲しさは,周囲の期待が大きければ大きいほどその選手自身が誰よりも強く感じているはずです.
 
 それを馬鹿のひとつ覚えのようにメダル,メダルと随分前から大騒ぎし,いざ獲れなければ「終わった」というような一言で片づけてしまうというのは,いかがなものでしょうか?それでは結局マスコミの視聴率かせぎの道具にされただけという感も拭えません.
 やはり周囲は選手たちの本当の気持ちを想いやり,どういう結果であれ精一杯の拍手を送ってやることこそ本当の意味のねぎらいになると思います.そして何よりも私が強く思うのは,多くのメダリストたちを育てる気概が本当にこの国にあるのならば,他のスポーツ先進国のように財政的支援,練習環境,報償,引退後の保障など,あらゆる意味で選手たちを支えるしくみを国を挙げてしっかりと作ってあげることこそ,本当の意味での応援になるのではないかということです.
 
 
 
 


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動物愛護?動物エゴ?

  先ごろ,環境保護団体シー・シェパードの抗議船が日本の調査捕鯨船へ妨害活動を繰り返したニュースが世間を騒がせました.動物保護や環境保護といった名目のもとに過激な抗議活動をする彼らはエコテロリストとも呼ばれ,逆に諸国から批判の声さえ上がっています.
 
 動物愛護団体が捕鯨を目の敵にする理由は、「鯨は知能が高い」ということや,数が減って絶滅の危機にあるということですが,わたしは彼らのそういう論理こそがエゴに満ちていると感じざるを得ません.

 日本の捕鯨は古来からわが国に根付いてきた立派な文化であり、これは欧米がウシやブタの肉を食するのと何ら変わりありません.しかも鯨一頭は頭のてっぺんから尻尾の先まで余すことなく解体され,その恵みを食用のみならずあらゆる用途に利用しています.また,絶滅の危機にあるという論理も全く根拠が希薄であるのは周知のとおりです.

 世界中にはウシやブタを食する国もあれば、イスラムのようにブタを不浄なものとして食さない文化もあります.サルの脳みそを食べる国もあれば,他国にとってはゲテモノとしかおもえないようなものを食する国々もあります.しかしそれらはどれも悠久の歴史の中で息づいてきた立派な食文化であり,優劣を述べることは全く意味をなしません.
 以前行われた日韓共同開催のサッカーワールドカップでは,犬の肉を食する韓国の食習慣をある国が野蛮だといって批判し,この習慣を止めないならば大会へのボイコットも辞さないとしました.しかしこれこそ韓国にすれば「いらぬお世話」ということでしょう.

  自分達の食習慣と異なるからといって他国の食習慣が野蛮だというのは、全く見当はずれの勝手な論理そのものでしょう.イヌは可哀そうだがウシやウマは可哀想ではないのか?ということです.家畜は人為的に増やせるから問題ないとか,宗教的に許されるというような考えも,全くの独断と偏見の産物に他なりません.「可哀想」とか「虐待」とかいう言い方をするならば、フォアグラを作るためにガチョウの胃に無理やり餌を詰め込むことや,象牙を得るためだけにゾウを殺したり,毛皮のコートを作るためだけにミンクを殺す行為は,まさに極悪非道の動物虐待ではないでしょうか.広い意味では人間の活動による地球温暖化も,何の罪もない多くの動植物に対する虐待でしょう.

  また私は特に医師として,極端な動物愛護を声高に叫ぶ人々に言いたいことがあります.
疾病との闘いの歴史でもあった人類の歴史の中では,先人のたゆまぬ努力のおかげで多く不治の病が次々と征服されてきました.しかしこの歴史の裏には,人類のエゴのために研究の犠牲になった数え切れないほど多くの実験動物たちがいることを忘れてはなりません.生涯全く薬や医療のお世話にならない人間はまずいない,つまり我々人間は,多くの動物たちの犠牲の下に発展できた医療の恩恵にあずかっているのです.それは動物愛護を声高にまくしたてる輩たちにとっても例外ではないでしょう.

 新薬の開発ひとつをとっても,新しい薬をいきなり人間に投与するわけにはいかないが故に(これも人間のエゴですが)まず動物に投与する.動物の種類もラットやモルモットからサルやヒツジにいたるまで様々ですが,犠牲のなり方もまた様々で,癌などの病気にわざと罹患させられたり,果ては実験の過程で殺されて(これを人間は犠牲死などと呼んでいますが,要するに殺すわけです)臓物を取り出されたりと,彼らにとっては散々です.
 動物実験に対しては倫理面を強調するためか,動物愛護団体を牽制してか,メジャーな医学論文には必ず「実験動物は当大学の動物倫理委員会の条例に従い倫理的な扱いを受け最小限の痛みを伴うようにして犠牲しせしめ…云々」などと書くことが義務付けられています.しかしどう書こうがこれは所詮人間の言い訳にすぎません.いくら人間の基準で「倫理的,愛護的」に扱っても,動物にとっては結局殺されるのです.

 こういった動物実験はもちろん必要最低限にとどめ,動物に愛情と感謝の気持ちを持たなければならないことは当然です.しかしこれをただ「虐待」だの「可哀想」だのという感情的な言葉によって表現して抗議するとすれば,それは全く馬鹿げたことです.また実験には自然死した動物を使うべきだと主張する動物愛護団体もあると聞きますが,それこそ動物実験の本質をあまりにも知らなすぎる愚論といわざるを得ません.

 人類はあらゆる生物の中で唯一文明を発達させ,万物の霊長として地球の支配者になったがゆえに,自らの発展のために食物連鎖のルールからはずれて他の動植物の生存を「操作」できるようになってしまった存在といえるでしょう.
 けれども同時に,自然界の中では数え切れないほど多くの動植物と関わって生かされている生き物のひとつに過ぎないというのも事実です.未曾有の繁栄を謳歌している人類数千年の歴史など,誕生以来150億年といわれるこの大宇宙や数億年もの長きにわたって地球を支配した恐竜たちの歴史に比べれば灰塵のごとくで,天変地異が起こればいつ絶滅してもおかしくはないと言っても過言ではないのではないでしょうか.

 それゆえ,我々人類の繁栄は自分たちの利益のために命を捧げた自然界の恵みの上に立っているのだという事実を謙虚に考え,常に感謝の気持ちを忘れてはならない,つまり本当の意味の動物愛護の心も,そういった気持ちの上に芽生えるものでなくてはならず,文化や宗教の違いや根拠のない感情論のみで騒ぎ立てるのはあまりにも視野の狭い,愚かなことであると思います.



人生相談科

  開業すると標榜科目に関係なくあらゆる患者さんを診ることになるとは聞いていましたが,当院も御多分に漏れず,毎日実に様々な患者さんが受診されます.
  クリニックも過当競争にあるこのご時世,ましてや地域の人たちのかかりつけ医を目指すのであれば,門戸を少しでも広く開けておくことは当然のことですが,中にははっきりした病名をつけられないような訴えの患者さん,大きな病院ならばすぐに精神科や心療内科に回されてしまうような患者さんも多いのは確かです.

  特に循環器科や呼吸器科を標榜していると動悸や胸苦しさを訴える患者さんが多く受診されますが,実際はその多くは狭心症などの重篤な病気ではなく,何らかのストレスが原因になっている“心因性”のものが大半です.
 
  そんな患者さんたちの話を聞くとその内容は実に多岐にわたっており,息子が離婚しそうでストレスがたまって疲労困憊だとか,彼氏との関係がうまくいかなくて毎日動悸がするとか,仕事上の上司が意地悪で毎日息苦しいとか,本当にお気の毒と感じるものもあり,心臓神経症とかパニック障害といった診断をつけることとなります.
 
  でも彼らにとっては,病名をつけるだけではなんら解決にはなりません.実は一番の治療法は可能な限り話をゆっくり聞いてあげるということだということを,開業してからは改めてしみじみと感じるようになりました.

  昨年はある若い女性が頻繁に起こる動悸を訴えて受診され,いろいろな検査をしても異常がなく,彼女が自分の複雑な家庭環境を涙を流してまで話すのを聞いているうちに,おそらく心臓神経症だと考えて同じビル内の心療内科の先生に紹介したことがあります.診断はまさに私の考えた通りでしたが,意外にも先生からは「患者さんは先生に話をじっくりと聞いてもらったのが一番の薬になったようですよ.」との返事をいただき,ますますその感を強くしました.その患者さんはその後も時々当院を訪れますが,私と話をするといつも笑顔を取り戻して帰って行かれます.
 
  まだクリニックが開院したての頃は本当に暇だったので患者さんの話を30分ぐらい聞いていることもありましたが,今はさすがにそれだけの時間はなく,待合室が混んで来ている時に,看護師さんが患者さんの方を向いて話を聞いている私の斜め後ろに積んであるカルテを「わざとらしく(笑)」めくったりして合図を送ってくれるのですが,患者さんの話を遮るのが下手な私は彼女たちのせっかくの気遣いに答えることもできず,却って気をもませることになってしまうようです.
  そんな状況下でもお構いなく話の止まらない患者さんも少なくはありませんが,それでも私にさんざん喋った後に,「先生ありがとうございました.先生と話して胸のつかえもとれました.」と言って晴れやかな症状で帰ってくれると,話をゆっくり聞いてあげてよかったと妙に納得してしまいます.

  でも患者さんたちの中には,同じ町内の誰それさんはどこそこ有名大学の出身だけどそこのお嫁さんは品がなくてとか,どこそこのクリニックの院長はヤブのくせに偉そうだとか(私も言われていたりして…),戦中戦後を潜り抜けた自分たちから見ると今の若いやつらは本当に腰ぬけだとか,棺桶に片足を突っ込んでいると思って遺産目当ての親戚が最近やたらとすり寄ってくるとか,…世間話の方が目的?なんて思ってしまう人たちもいます.
 それでも患者さんたちがそういったことを話すことによって精神的に安定したり,気持ちが明るくなるのであれば,それはそれで立派な治療なのではないか,それにこちらも人生の大先輩方からいろいろな話を聞けて勉強にもなるではないかと思うようになりました.何よりも私のような若輩者に心を開いて話してくださることにむしろ感謝さえ感じており,医者冥利に尽きるとも言えます.

  そんなわけで,もともとどちらかといえばせっかちで短期な性格の私ですが,こと診察室に入ると,いくら患者さんの長い話を聞いていてもそれほどいらいらすることはなく,自分でも本当に驚くくらい気が長くなったと思います.これも患者さんたちに鍛えられた賜物かもしれません.

  先日当院のナースの一人が,「先生,うちの標榜科目に人生相談科っていうのも加えたらどうですか?」と笑いながら話してくれましたが,なるほどそれも悪くないなあ,などと本気で思ってしまいました.