抗菌よさらば

 もうすぐ開業してはや半年になります.スタッフ全員が業務にどんどん慣れ,あうんの呼吸とまではいきませんが,どんな場合でも以前よりスムーズに業務が流れるようになってきました.しかし慣れは時に注意の散漫さにつながり,感染事故などの医療安全上の問題を起こしうるので,改めて気を引き締めなければならないと思っています.
 感染といえば,世の中にはやたらと「抗菌」を謳った商品,いわゆる抗菌グッズが目につきます.身の周りを清潔にして病気を予防するというコンセプト自体は良いことだと思いますが,ただあまりにも極端な清潔意識の蔓延にははなはだ疑問を感じます.
 つい数十年前まで,日本人の死因のトップは細菌やウィルスによる感染症でした.衛生状態や栄養状態が悪かった上,抗生物質も満足になかったからです.しかし今でもエイズのように特効薬の発見されていない感染症もありますし,院内感染で有名なMRSAのように従来の薬では効かなくなった感染症も出現し,抗生物質の開発といたちごっこになっていることも事実です.
 そもそも地球上の生物の中で数だけから言えば圧倒的最大多数を占めるのが細菌で,全ての生き物はそれらと深く共存しています.つまり細菌がいなくなれば地球上の生物は生きていけません.人間もその例外ではなく,大腸には無数の大腸菌がいて消化を助けていますし,また皮膚にはブドウ球菌をはじめとした常在菌がいますが,これらはむしろ皮膚を保護しているといわれています.通常これらが悪さをしないのは,これらの細菌が人間の抵抗力とバランスをとっているからで,その抵抗力も細菌と適度に接触することによって獲得するわけです
 最近はやたらと清潔観念が浸透し,中には一日に何度も髪の毛や手を洗ったりしなければ気のすまない,潔癖症といわれる人も増えています.しかし社会生活をしていれば他人と直接あるいは間接的に接触することは絶対に避けられないわけで,たとえば乗り物,つり皮やベンチ,窓やドアノブ,パソコンのキーボード,スーパーのカート,公衆トイレ,本屋や図書館の本…と数え上げたらキリがありません.これらの接触によって絶対に重篤な感染症にならないとは断言できませんが,ほとんどの場合は問題なく,帰宅後にうがいをするとか手を洗うといった最低限の作業で通常は十分なわけです.
にもかかわらずあらゆる細菌を「悪者」とみなし,不必要なまでに細菌を遠ざける抗菌グッズというものの発想はいかがなものでしょうか?
 最近は結核が再び増加していますが,結核が国民病時代であった昔は知らないうちに結核菌に自然感染して免疫のできていた人が多かったのに対し, 現在の若い人は結核菌に出会う機会さえ少ないので抵抗力が獲得できず発病するためといわれています.
 つまり人間は生まれてからいろいろな細菌やウィルスと接触して戦っていくことにより,自然と抵抗力がついてくるわけで,抗菌グッズはそういった外界からの自然な刺激をも不必要なまでになくしてしまう,言ってみれば人間にとっては過保護な商品と考えたくなります.
 このことは何か,最近やたらと多い動機の単純な犯罪を思い出させます.仕事がうまくいかないとか,親に叱られたとかといった,信じられないような幼稚な理由で殺人に走ったりする事件の根底にあるのは,甘やかされて過保護に,純粋培養で育った人が多いからかもしれません.
 私は,もう抗菌グッズのようなものの発想自体を根本的に改めてもいいのではないかと思っています.


スポンサーサイト

そんなバナな(*_*)!

 先日より「バナナダイエット」とやらが世の中をにぎわしており,スーパーの店頭からバナナがあっという間になくなるような事態が起こっているそうです.そうかと思えば実は果物は何でもいいとのこと,ある雑誌の紙面には「キウイダイエット」や「みかんダイエット」まで出る始末…そのうちあらゆる果物がバナナと同じ運命を辿り,さらには果物を先物取引する輩が出てきて価格も驚異的に高騰し,キャビアやフォアグラのような高級食材になってバナナもみかんも我々庶民の口には簡単に入らなくなるかもしれない,などとさえ想像してしまいます.
 この馬鹿騒ぎを見ていると空恐ろしくさえなるのは,きっと私だけではないでしょう.そもそも朝食にバナナと水だけを摂取すれば誰でも簡単にダイエットできることが証明されているのであれば,肥満に悩む人などとおの昔にいなくなっているはずです.フィットネスジムもこれほどはやっていないでしょう.こんなことは少し考えれば容易にわかるはずです.安きに流れるのは人の悲しい性,それでも学問に王道なしと同様,ダイエットに近道なしです.中年女性達に信奉されている「みの○○た」のテレビ番組にしてもそうですが,なぜ皆これほど簡単に「洗脳」されてしまうのか,不思議でなりません.しかもこういった情報もブームが去れば誰も見向きもしなくなり,あっという間に過去のものとなることがわかっていても,です.この「バナナ」とて来年になれば「何じゃそれ?」となるでしょう.
 こう考えてくると,我々日本人は,実はみなマスコミの情報操作によってだまされているのではないか?環境問題にしても食の安全の問題にしても,世の中を騒がしている問題は一部の利権集団によって作り上げられたデマではないのか?そう考えたくもなります.実際昭和初期の日本人は一種の洗脳によってあの忌まわしい戦争に突き進んだわけですし,金正日を神のように崇めてやまない北朝鮮の国民のことを笑う資格などないのかもしれません.
 我々はもういい加減に眼を覚まし,自分の周りのあふれんばかりの情報に惑わされることなく,冷静に対処しなければいけない時代になっていると感じざるを得ません.


ないものねだり

 昨日今日と連休でした.オペ出張や研究会もなく,土曜日の午後からは久しぶりにゆっくり過ごしました.昨日は長女が京都から久しぶりに帰ってきたので,家族で彼女の21歳の誕生日を祝いました.
 先日神戸労災病院時代に仲良くしていた看護師さんたち3人と久しぶりに飲む機会がありました.1人はまだ同院で頑張っていて,2人はこの春に辞めてそれそれ違う病院に勤務しています.ちょっとした同窓会気分で楽しい話に花が咲きました.
 病院の看護師さんの仕事は非常に重労働ですが,どこでも人手不足なので売り手市場でもあります.従って特に都会の場合,寿退職でもなければよりよい労働環境を求めて新しいところに移ることも多いのは事実で,彼女たちもそれなりの事情があって移ったわけです.2人の話しでは,今の病院は勤務は楽で雰囲気も良いが,逆にずいぶん暇すぎるとか,ドクターの質が低いとか,挙句の果てには前の職場のほうがやっぱり良かったとか…私は経験上看護師さんたちの気持ちはよく判るので理解できますが,他人が聞いたら,まあずいぶん勝手な,と思うかもしれません.
 でも,所詮人間というのはそんなものかもしれません.つまり,自分がどんな立場にあっても100%満足などということはありえず,あらゆる点で自分が満足できる環境にいることの出来る人などごくまれでしょう.大学教授や,大富豪や,総理大臣や,大会社の社長などのように,頂点を極めた人々でさえ決して満足はしていないでしょう.要するに,ないものねだりなのです.
 幸せとは,2種類あるかもしれません.ひとつは,自分が満足できるレベルの閾値が低く,ちょっとしたことでも楽しい,幸せと感じられること,今以上のものは望まないこと.そしてもうひとつは,現状には満足できない,しかしより上をめざして突き進むエネルギーがあり,その過程を楽しいと思えること.人それぞれでしょう.
 私はどちらがいいとか悪いとか言うつもりはありません.本当に自分のいる環境に心から満足できればそれほど心穏やかなことはないでしょう.しかし人類だけが他の生物と違って驚異的な進化をとげたのは,現状には満足せず,よりよくしたいというエネルギーがあったからだということも否めないからです.
 いかに満足するか,これは私のみならず誰にとっても永遠の課題かもしれません.
  


悲しい再会

 4人部屋のベッドのひとつに無表情な顔つきで横たわっているその患者さんは,私が彼女の名前を呼ぶと,私のほうに顔を向け,にっこりと微笑みました.でも彼女からは,以前のような元気のいい声を聞くことは叶いませんでした.彼女は突然の脳梗塞による半身麻痺と失語症を起こしていました.
 彼女は私がかつて心臓弁膜症の手術をした患者さんです.高齢でひとり暮らし,足が悪いため3年近くも介護施設に入所されておられました.車椅子が必要ですが,術後の経過は順調で身体はすこぶる元気,口も達者,何とかして自立したいと,最近バリアフリーにした我が家に帰られたところでした.私の外来に毎月受診して世間話をするのが好きで,自分のことより,逆に私の健康や家族の様子を気遣ってくれるような方でした.ある日施設の看護師さんが私の外来に同伴してきたことがあり,「この先生がいつも○○さんが話している大好きな大加戸先生ネ!」とニコニコしている彼女に話し,何か照れくさかった思い出があります.彼女は私にいつも「私が死んだら先生が骨を拾ってね」と冗談のように話していました.開業してからも私に会うのを楽しみにされ,通院されていました.
 その彼女が先日突然の脳梗塞で倒れ,ある病院に緊急入院されたことは私にとってショックでした.少し前の診察の時に,「先生,やっぱり年取るとあかんなあ」というので,「でもな,○○さんやったらまあ120歳ぐらいまでは保障するから心配無用やで(*^_^*)」といつもの調子で話しをしたばかりだったのです.
 弁膜症で人工弁を植えた患者さんが,ましてや高齢であれば脳梗塞を起こすリスクがあるのは避けられません.でもだからこそ日ごろから主治医として気をつけていたわけです.「たられば」をいくら言っても仕方はないとはいうものの,やはり私の治療方針が悪かったのか?などと悔いてしまいます.あれだけ話し好きだった彼女が一言の話しもできずベッドに伏しているのを見たとき,私も一緒に訪れたうちのナースも,思わず涙がでそうなほど切なくなってしまいました.
 今は彼女の一日も早い回復を祈るのみです.